高校進学率が9割、大学進学率が5割を超える中、家庭の状況や、経済事情によって進学の道が絶たれ、将来選択の幅が狭まってしまうことが社会的課題となっています。
教育の機会均等のために、高校就学援助、給付型奨学金などの制度があります。しかし給付型奨学金は、多くの国公立大でかえって無償化の対象が狭められる結果にもつながってしまいました。
私たちは、どんな環境に生まれても、子どもたちが個人として教育を受ける権利が保障されることを願っています。
心理的安全のない家庭で育ち、大学入学後に精神疾患を発症して困窮を経験。「あじーる」のシェルター利用後に生活保護などの福祉制度を活用しながら、入学から10年で大学を卒業。自身の経験を漫画にして発信中。
わたしは、生涯学習も含めてすべての形の学びは、ぜいたく品ではないし、
国を構成するすべての市民が、アクセスできるようにすべきと考えています。
父は統合失調症で、物心ついたときから常に家でじっと過ごしていました。父から自発的に「おかえり」と言ってもらえたことはありません。母は精神的余裕がなく、元の性格もあり、傷つける言動が多かったです。たとえば、小4のとき公営プールで性暴力に遭いました。帰ってやっと母に言うと「弟と一緒にいたらよかったね」と言いました。当時、弟は小1です。それを聞いて、世界が少し遠のきました。ほかにも、いじめを相談すると「あんたが悪いんじゃないん?」と言われたり、容姿をいじって大笑いしたり。私が傷ついて涙を流していることは気づきもしなかったと思います。それが家庭での日常でした。
実家から遠く離れた大学に進学し、1年目は親戚の家に居候、2年目から学生寮に入りました。このころから生活リズムがおかしくなり、授業に行けなくなりました。実験で観察していたゾウリムシが破裂したのを見た瞬間、誰にも助けを求められないまま、身体が動かなくなりました。それがうつの発症でした。
実家での1年間は、まったく療養になりませんでした。母は「身体を動かせば元気になる」と言い、鬱症状と抗うつ薬でしおしおになっている中、山登りに連れ出されたり。バイトを強要されたり、夜眠れなくて朝寝ていると無理やり起こされたり。自分の部屋がないため、日中は無言の父と何時間も一緒にリビングにいるしかありません。田舎のため病院の選択肢もありませんでした。このまま実家にいても大学に行けるようにはならないと思い、1年で札幌へ戻りました。
大学5年目の1年間はほとんど記憶がありません。症状はひどく、計画的な履修をするのは困難でした。冬になり、学生寮から「修業年限が4年のため、3月に退寮するように」と事務的な通知が入っていました。家がなくなる絶望感から、自分では全く動けず、転居先も探せませんでした。友人がシェルターに連絡をしたり、引っ越し作業をやったりしてくれました。シェルター利用後は、生活保護を受けてアパートで生活を始めました。それから2年間、大学は休学し、入院治療を受けるなど療養に専念しました。
休学の限度は10年までのため、8年目で復学を決めていました。福祉事務所から「復学するなら保護は辞退して」と当初から言われていました。ここでのポイントは、打ち切りではなくあくまで私の側で「辞退」をしてくれ、と言ったことです。「大学への復学」を理由に行政側が保護を廃止することには法律上の根拠がないためです。
親の経済力では授業料は捻出できても生活費は難しく、奨学金も受けられる年数を超えていました。主治医からは短時間の軽作業でしか働けないと診断されており、大学をやめたところで就労自立には程遠い状況でした。
福祉事務所は私が保護を辞退できるようにするため、母に一定以上の金額の仕送りをするように連日夜に電話をかけました。ほかの困窮している大学生のためにも、朝日訴訟のように闘って前例を自分が作ろうと考えていた時もありました。昼間学生の身分である限り生存権はないのかという問いの答えを聞きたかったのです。しかし闘うことで親に迷惑をかけるのもいやでした。偶然にも直後に障害年金の審査が通ったことで、親の必要な仕送り額が減りました。最終的に心が折れて保護を辞退することになりました。
障害年金と親の仕送りにより大学10年目で卒業しました。研究生という立場で大学に残りましたが、やはり母から仕送りを受ける心理的負担が大きく、過食嘔吐による負債も膨らんでしまいました。母と距離を置いたほうが良いという病院のアドバイスもあり、生活保護を再び受けることになりました。
わたしは精神疾患や大学の制度、国の制度のはざまに陥りましたが、周囲のひとびとの助力を得て研究を続けたいという意思を貫いてきました。生涯学習も含めてすべての形の学びは、ぜいたく品ではないし、国を構成するすべての市民が、アクセスできるようにすべきと考えています。
松岡 是伸北星学園大学教授
一般論に回収されない多様な「個の経験の語り」を蓄積していくことが、
分断を生まない社会制度をつくるために必要だと思います。
歴史的には、生活保護における教育保障は拡大する方向に進んでいます。
かつて生活保護では高校進学が認められていませんでした。
しかし1970年代に高校進学率が9割を超える時代の変化もあり、生活保護の「生業扶助」(自立のための技能の習得への費用)が適用されることになり、現在、生活保護世帯の子どもたちは高校に通うことができるようになりました。
昨今は高等教育(大学等)の進学率も浪人生を含めて8割を超えており、保護行政の対応が注視されています。
現在は2つの方法で、保護世帯から大学進学することができます。
この場合は世帯分離はせず、保護を受給しながら進学ができます。
この問題は、4つポイントで考えることができます。
世帯としてではなく、個人としての健康的で文化的な最低限度の生活をどのように捉えるか。
これまでは進学した者を世帯分離して保護の対象にしないという、例外的な取り扱いをずっとしてきたが、抜本的な見直しが必要な時期がきているかも。
生活保護の「教育扶助」の対象は中学校までであり、高校進学は「自立に役にたつ」として「生活扶助」で通うことができている。
生活保護制度における教育保障という観点では、高校進学の時点から見直すことも必要かもしれない。
この問題の解決を生活保護制度だけが担うのではなく、日本における教育政策の問題として捉え、幅広い領域が連動して取り組む必要がある。
一般論や抽象論に回収されない、春風さんのような「個の経験の語り」を蓄積していくことが重要だと思います。また社会的な分断を生まないような制度の建て付けが必要です。
吉中 季子神奈川県立保健福祉大学准教授
給付型奨学金の導入により、年齢制限が生じるなど、
かえって無償化の対象者が狭められたという側面があることは見過ごせません。
生活保護世帯のこどもが、高等教育(大学など)へ進学したいとき、世帯分離しないと進学できない理由について、国会質疑における厚生労働省の見解は「一般世帯とのバランス」ということです。その意味は定かではありませんが、「高校以上の教育を受けることは『本人のまなび』以上の意味がなく、生活保護にそぐわない」という意味なのかなと思いました。
私の勤める大学においても、春風さんと似たような学生の困窮の相談がいくつもあります。「給付型奨学金でなんとかしなさい」と答える現場のひとも多いようです。しかし給付型奨学金は実際のところ使い勝手が悪くなりました。
実際に学生からは、対象がかなり狭いという声が聞かれます。具体的には、
また虐待から逃げてきた学生が給付型奨学金を申請した際、大学の事務から家族からの虐待を証明することを求められ難航したことがありました。その学生は、たまたまそれまで児童相談所への一時保護の記録が残っていたためなんとかなりました。この証明は学生支援機構ではなく、あくまで大学側が確認し保管するもので、各大学によって判断が異なります。
きっかけは、ある学生が休学中に生活保護を受給したが、復学した際に保護を辞退せざるをえなかったというケースです。虐待を受けた子どもを支援するNPO法人の代表らが市長に生活保護制度の柔軟な運用を訴え、それを受けて、独自の給付金制度が設立されました。
横須賀市は虐待被害などにより、単身生活を余儀なくされている生活困窮の大学生等への支援制度を新たに設ける。財源は市の「よかった ありがとう。」基金を活用。[中略]
創設の背景には、生活困窮に陥った学生への支援が急がれていることにある。現行の制度では、生活保護を利用しながらの大学等への進学は認められていない。世帯分離や進学準備給付金の支給などで進学自体は可能となっているが、奨学金やアルバイトなど、生活の維持が厳しい学生も多い。[中略]
市は「将来を担う若者の就学意欲を行政が摘んではいけない」として、来年度から独自の制度を設けることとした。
対象は「児童自立生活援助事業の支援を受けている者」とのことで、ようするに児童福祉の延長でやっているということになります。よって20歳以上のひとは対象になりません。
またこの取り組みは、たまたま市民からの慈善行為として多額の寄付があったことで実現されたため、継続性は担保されておらず、一時的な救済措置にすぎません。
それでもないよりは良いというのは間違いないと思います。議論のきっかけになればいと思います。